感情願望欲望すべて赤裸々むき出しの毎日
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眉山観ておりました。
さだまさし原作なのかふーん、と、映画公開の時から密かに楽しみにしておりました。 テレビでやってくれるとは嬉しい限り。 嬉しい限り、とか言ってる割にはながら見。 しっとりとして素朴な物語展開は、ながら見には丁度良かったです。…いや、とっても良い意味でです。力まないで観れるって事です。 しかしクライマックスのシーンが解せない。 結ばれる事のなかった父と母が再会を果たすのはとっても良いのですが、祭りを遮っちゃいかんだろう。 もの凄く詰まらない意見でございますが、祭りの横断を遮って出会うというのは少し…あれー、えー、と思いました。 っつか普通止まるだろう、踊り子も。何普通に踊ってんじゃい。祭りの運営委員会は母親の容態急変には駆け付けといて、踊り子の踊りを遮るのを阻止しないとはどういう了見なのか。 これはさだまさしの脚本がというより、映画の演出側のアレなのでしょうか。 もっとすっぱり毒をもって言いますと、自分達のワガママで祭りに来たのに、踊り子観衆運営全てに迷惑を掛けるとはどういうつもりなのか、と。 伝統の祭りを中心に据えた物語なのだから、その祭りに迷惑を掛けて欲しくなかったっす。 世界は父と母二人で回ってるんじゃないぞと。観衆や、一年に一度の祭りに懸けている踊り子の思いはどうしてくれるのか。 こういう自己満的展開は好かないです。いやでも本当、ここの場面だけ。ここだけがものっすご不満だったんです。 眉山の文句だけじゃアレなので、私が感嘆した伝統のお祭りの話でも。 そのお祭りは岐阜は郡上祭り。 その土地の者でもなければ一度行っただけなのでウロ覚えも甚だしくて申し訳ないのですが。 駅を降りれば閑散と真っ暗な道。(夜でしたので) ちょこちょこと郡上祭りの提灯が釣ってるだけなので、本当にやってんのかと不安になった事を覚えています。 しかし十分かそこら歩けばもうお祭りの中心。 屋台が並び、そこは人と光で溢れていました。ワーワー騒いでいる感じではないです。 中心と言っても、場所は広くはない商店街の様な通りです。 中目黒ウッディシアターに通じるあの商店街通りよりも道幅は狭いと思います。例えが何だか虚しい… その商店街のど真ん中の十字路に櫓があり、その櫓で郡上踊りの歌と伴奏が奏でられています。 踊りの輪はその櫓を中心に、広がっているのですが、規模が凄い。 広くない通りなので輪と言いながらも輪になる事は出来ず、商店街の通りに沿ってうねうねと人の輪が出来ている状態です。それも、二重三重に。 人の踊りの輪も大きく、踊っている間の七割は櫓を見る事も出来ません。 輪に加わっている人達が、踊りながらだんだんと右へ、あるいは左へと動いて行くのですが(右か左かは確か曲によって違います)、本当に端っこから輪に加わった私は、十分十五分後に櫓を見て、またその輪のでかさを目の当たりにして、驚いたというよりもう絶句したというか、例えるなら荘厳な観音像を見た様な、そんな気分になりました。解り辛っ! この踊りがまたね、凄い。 輪に入るのも抜けるのも自由。振り付け知らなくても全然大丈夫。簡単な振り付けが繰り返されるだけなので、見様見真似ですぐ出来ます。 それに合わせて踊って踊って踊って、たまに曲が変わって踊って踊って踊って… これが夜通し続きます。 四時か五時に終わるらしいと聞いていたのですが、どっこい、終わってみれば朝六時。…七時だったかな。 気付かぬ間に空は白んでいて、フィニッシュを共にした踊り手達は晴れ晴れとした表情で爽快感に打ちひしがれます。というか私が打ちひしがれていました。 途中何度も目が合ったりした踊り手さんに挨拶してみたり。何ていうか、どんなに荒んだ奴でも清くなれます。多分。 単純な振り付けを繰り返し繰り返し、曲に合わせてずーっと踊っていると、何だか脳みそがすーっと空っぽになって行きます。 晩から朝まで何時間も何時間も踊っているのに、疲れただとかそういう感覚はないです。ただ無心です。身体が勝手に動くのです。 正直途中で寝ちゃったのですが、それでも踊ってました。気付いたらさっきとは目の前の景色が変わってたりしてびっくりしました。 そんくらい無の境地なのです。未知の領域なのです。 ワイワイと大盛り上がりする様なお祭りではありませんでしたが、心に残る一夜でした。 夏にでも全国回ろうかなとお思いの方は、是非参加してみては如何でしょーか。 以上! PR |